生活

2012.04.10

負けず嫌い嫌い

 たとえば十年以上も人として暮らしてきたら、たいてい何人もの負けず嫌いな人に出会うにちがいありません。
 それは同級生だったり友人だったり先生だったり、悪い場合は家族にいたりもします。

 この「負けず嫌い」という言葉は「負けず」と「嫌い」だと思うのですが。
「負け」と「ず嫌い」かしら?
 いや、「負けず」「嫌い」ですよね。

「負けず」はふつう、負けないということだと思うのですが、そうすると負けないことが嫌いとなって、負けず嫌いの意味になりません。
 負けるのが厭で、勝ちたがるのですものね。
「負ける嫌い」という意味じゃないといけません。


 これを調べてみると、人気の『広辞苑』では。

〈ズは否定の強調から挿入されたもの〉


 最近最新第七版がでましたが、僕が持っている『新明解国語辞典』第三版では。

〈「負け嫌い」と「負けず」の混合〉


 インターネットで調べてみると。

〈「負け嫌い」と「負けじ魂」の複合語〉

〈ズは打ち消しの助動詞ではなく、接頭語で種々の語に付いて、並みのことでない、程度が一通りでないの意を表す「―太い」「―ぬけている」のズ〉これは「ず嫌い」派ですね。


 諸説がまことしやかにささやかれているようですが、たいていの語源が信用できないように、どうして「ず」になってしまったのかは、河童の発祥とおなじくらい謎だと思っていれば良いでしょう。
 よくわからないけれど、そういうこと、ということです。

 この言葉とおなじように、負けず嫌いな人も、なぜそんなに負けたくないのかよくわからないところは、天狗の存在とおなじくらい謎ですから、不明な点ではピッタリな言いまわしです。


 いったいどうして負けず嫌いになるのでしょうか。

 前にも書いていますが、僕はひとりっ子の特性か、もって生まれた性質か、競争心があまりなくて勝負が好きではありません。
 まず、他人にほとんど興味がないので、自分以外の人に勝ってもそれほど感動しませんし、負けてもそうです。
 たのしくもうれしくもたいしてないし、悔しくも悲しくもあまりありません。
 他人と自分とを比べて、良い悪いを判断する感覚が未熟なのかも知れません。

 みんながしているから自分もして良いとか、だれもやらないからやめておくといった考え方が、なかなかできません。

 実際のところは、あまり要領よく生きられないほうなので、自分以外のことなど気にしている暇がないというのが実情です。


 だからといって、勝って全くうれしくないわけではないのですが、勝ちに執着がないのです。
 勝ちに価値を見いだせません。

 勝つということは、負ける人がいるわけで。その人の前で、大喜びをするような態度が、ちょっと信じがたいんです。
 僕は、身近に他人をすごくバカにする人がいて育ったので、人をバカにしたり、蔑んだりする行為に、とても嫌悪を感じます。
 できれば、自分はしたくないと思って生きています。

 なんでも勝ちたがる人って、たぶんこの人を見くだす気持ちに優越感をひじょうに持つのでしょう。
 優越感を持つことで、自分の存在を肯定できる気になるのかも知れません。
 そんなことは、自分でしっかりと立っていれば良いことで、他人と比べることもないし、他人が決めることでもありません。


 きっと、異常に優越感が好きな人は、劣等感も感じやすいのではないでしようか。
 だから、自分以外の人に認められたくて、上にでたがるのかも知れません。

 だって、負けず嫌いが発覚するときって、負けているときか負けそうなときですからね。

 余裕で勝っているときに、負けず嫌いな言動は、それほど前面にはでないものです。
 安心しているので、心にも言葉にも振る舞いにも、ゆとりがあります。ところが、負けてしまったり、窮地に追い込まれると不安になって、心も言葉も行動も限界ギリギリ。
 ムキになって、なんとか自分の立場を引き上げようとします。


 けれども、そのあと勝負に勝ったとしても、ムキになった時点で人としては完敗なことに気づかないのでしょうか。

 勝負の世界に生きる人、たとえばスポーツ選手なんかは、負けず嫌いだと考えられがちですが、見ていると、案外そうでもありません。当然、自分が勝負しているところでは、ぜったいに勝つつもりで努力しているのはわかりますが、その他のことではけっこう負けても平気です。
 勉強なんか、全然できなくてもだいじょうぶ、って顔してます。


 ところが、負けず嫌いな人って、なんにでもムキになって、負けを認めなかったり、謝らなかったり、知らないと言えなかったりしませんか?

 僕は、これが面倒くさくて、負けず嫌いな人が嫌いです。係わりたくありません。

 しかも、肝心の仕事や家庭のことでは、ちっともがんばらないで、完全に負けている人が多くありませんか。

 一流の人と、ムキになるところが正反対です。けっきょく、なにも持っていないんです。


 負けないところは、一つか二つでじゅうぶんです。これだけは負けないと努力していれば、他人を蔑んだり、自慢したりしなくても、他人に劣るところを平気で見せても、人は敬意を持ってくれるはずです。

 新入生、新社会人のみなさん。なんでもできる、なんでもやることなんてありません。
 なにかできれば良いんです。

 けれども、そのなにかを見つけるために、なんでもやってみてください。
 そして、なにをするかは、人より勝るからではなく、自分の心で決めてください。

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2012.02.04

やりたいことを、やるために

「やりたいこと、やってるか?」

 AKB48の、高橋みなみさんは言います。
 人はみな、生まれたときには自由です。好きなことを、好きなときに、好きなだけやっても良いようにできています。

 前回の記事でも、やりたいことをやるのは良いことだと書きましたが、それがけっこうむつかしいとも書きました。
 好きなことを生業にしたり、趣味としてたのしんだりすることは一つの方法です。しかし、そういった大きな仕事や作業ではなくて、もっと細かい日常の行動でも、自由を履きちがえている人をよく見かけます。
 自分さえ良ければ、それで良いといった行動を平気でとる人。いたるところにいますよね。

 思いやりがない、想像力に貧しく、考える力が乏しい人です。学校へ行っても、会社へ行っても、遊びに行っても、旅行に行っても、どこにでもいます。残念ながら、これが多数派です。
 路上に、タバコの吸い殻でも、噛んだガムでも、菓子の袋でも平気で捨てて歩き去る、我先に席を取り、当然年寄りにも妊婦にも譲らない、後ろから急いでいる人が来ても道さえ譲らない、順番は守らない、平気でウソをついて他人を騙す人です。

 何人か、顔が思い浮かびましたよね?
 やりたいことをやるのと、やりたいようにやるのとは、言葉は微妙なちがいのようですが、実際には大ちがいです。

 たぶん「他人に、カンケーねえだろ」とか「他人に、メーワクかけてねえ」とか、足りないおつむで考えるのだろうけれど。迷惑ですよ。
 この世に、たった一人で生きているのならば、やりたいことだけやって生きていけるでしょう。もちろん、他人に迷惑はかけませんし。
 しかし、他人を無視した行動は、周囲にバンバン不快な思いを投げかけるので、傍迷惑です。害です。

 けれども人って、独りで生きていてしあわせでしょうか。ひとりで生まれて、ひとりで死んでゆきたいですか?
 そんな生き方なら、いつ死んでもよいでしょう。たぶん、心残りもないし、悲しむ人も一人もいません。明日死んでも、平気です。明日、死にましょう。それが良い。今日よりも、たのしいことなんて、ありませんから。

 それでも、あなたにいてほしい、あなたがいてほしいと願う相手が、たった一人でも、ほんの勘ちがいでもてるのなら、自分さえ良ければ良いなんていう、しみったれた考えは、それこそ昨日歩いてきた道端にでも捨ててきたほうが良いです。どうしても捨てられないなら、厳重に包んで糊を付けて鍵をかけて、奥のほうにしまい込んで忘れてしまいましょう。六十年くらい経って、大掃除をしていて見つけたとしても、こっそり夜中にほどいてみて、ういえばこんなもの持っていたっけと、苦笑いしたら元にもどしておきましょう。

 自分のしあわせなんて、他人のしあわせのうえにあるのだと、自分のことは二の次にできたら良いのに。

 自分本位というとワガママとも言いますが「我が儘」と書くので、自分らしいという意味にとって、悪いことではないと解釈する、ワガママな人がたまにいます。でも、前にも書きましたが、言葉の意味を漢字の意味からとらえるのは、やめたほうが良いです。たいてい履きちがえます。他人を騙したり、説得するのが得意な人が使うテクニックです。トリックです。言葉遊びですから、無意味です。

 ワガママというのは、幼い子供に自我が芽生えたときに使う表現です。
 子供のときを過ぎてから、ワガママだと言われたら、子供っぽい、幼い、未熟だと言われているだけです。大人ではないと言われて喜ぶのは、ピーターパンだけです。若々しいと思われているのでは、ありません。

 人と関わらないで、自然とも科学とも芸術とも、まったく関わらないで生きていくなんて、先ずできやしません。なんでも、自分一人でできているなんて、驕りです。
 身勝手で横柄な振る舞いをしていたら、人にも天にも地にも嫌われます。嫌われるよりは、好かれたほうが良くないですか?

 嫌われるのは簡単だけれど、好かれるのはむつかしいとお考えのあなた。じつは、そうでもないですよ。
 たぶん、ワガママで迷惑をかけている人は、迷惑をかけていることに気づいていないように、嫌われていることにも気づいていないだろうと想像できますが。僕も、そうですから。だけども、きっと自分のことは大好き、ですよね。僕も、そうですから。

 自分を好きなように、他人も好きになれませんか?

 自分をだいじにするように、自然をだいじにできませんか?

 自分を尊重するように、科学を尊重しませんか?

 自分を愛するように、芸術を愛せませんか?

 できますよ。好きになる気持ちは、もともと持っているのですから。もっと、周囲を敬えるはすです。もう少し、謙虚になれるはずです。ありがとうって、言ってみましょう。
 みんなも、あなたが好きですよ。

 そう、AKB48は全員で、こう言ってからステージへ上がります。

「いつも、感謝!」

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2012.01.27

モノサシ

「しあわせの基準を決めろ」と、立川談志さんは言いました。

 僕は、ひとりっ子故か、または絵描きの性質なのか、競争心が滅多にありません。他人にあまり興味がないので、他人と比べることをあまりしません。自分と人とを比べないだけでなく、人と人とも比べません。人それぞれ、ちがいますからね。ちがうものを、おなじ基準で比べるのは困難です。面倒くさいので、しません。

 しかし、世の中には負けず嫌いな人も大勢います。
 スポーツ選手は、勝負の世界に生きているから、負けず嫌いな性格のほうが向いていると思います。大袈裟に言えば負けは、死を意味するわけですからね。本人が満足のいくパフォーマンスができたとしても、試合に勝たなければ生きていけないので、どうしても勝ちにこだわらなければなりません。ただ、自分の仕事ではないもの、たとえばトランプをしたり、ギャンブルをしたとしても、すぐに熱くなって勝ちたい気持ちを強くもつのだろうと、容易に想像できます。僕はこれが、ちょっとニガテ。

 オフシーズンに、テレビ番組で芸能人などといろいろなゲームをしているのを見ても、かなり熱くなっている人は多いようです。画面のこちら側にいたら、うっとうしいですね。

 僕は、小中学生のときに水泳をやっていて、それなりに速くて学校の代表になったり、東京都の大会にも出場したことはあるのですが、そのころでもあまり勝負にはこだわりませんでした。
 泳ぐのは大好きだけれど、練習はあまり好きではないし、試合はもっとキライでした。練習しないわりには、まあまあ良い成績でしたが、優勝したいとかオリンピックを目指したいと思うことはありませんでした。もっと小さいころから、絵を描いたり粘土をいじったりマンガを描くことのほうがさらに好きだったので、一番ではないものには必死になれなかったのでしょう。なんにでも、必死で一生懸命になれるのも、すごいことだとは思いますが、うらやましくも、見習おうとも思いません。

 どうも、いつでも懸命な人や、常に真面目な人がニガテなのは、評価を外にゆだねているように感じるからかも知れません。他人に勝つことで自分の価値を見出したり、仕事に値段をつけたり、休まなかったりすることは、自己満足ではなくて、たいがい他人に誉められたいとか認められたいという気持ちが働いているように感じます。ですよね? と、尋ねれば、たぶん「ちがう」とみなさん仰るのでしょうけれど。そう見えますよ。

 試合がなくても、歯を食いしばって練習しますか?

 お金がもらえなくても、全力で働きますか?

 仕事や学校は、どうして毎日行くのですか?

 とはいっても、誉められるのは気分が良いものです。僕も誉められるの大好きです。けれども、残念ながらそんなに誉められた覚えがありません。
 たぶん、人並みには、若しくはそれ以上に誉められて育ってきたのかも知れませんが、誉められたことはそのときに喜んで、あとは忘れてしまったほうが良いと思うので、いちいち覚えていません。

 誉められたことを基準にしてしまうと、それは自分で決めたことではないので、よくわからないのではないかと思います。やりたいことをやっているのか、やるべきことをやっているのか、はたまたやらされているのか。

 やりたいと思ってはじめたことでも、つづけていくことは案外むつかしい。仕事にするのは一つの手だけれども、いったい仕事がしたいことなのか、お金を稼ぎたいのか、いつしかわからなくなって理想も目標も失って、今日は昨日のコピーのような、明日は今日の繰り返しのような生活になってしまうこともあるので注意が必要です。

 お金を稼ぐこと自体が目的なら、行為はなんでも良いはずなのに、人は贅沢なもので、待遇に不服を持ちがちです。

 しかし、こうしてブログを書いていると、好きで好きでしょうがなく、書きたくて書きたくてしかたなくて発信している人がとてもたくさんいることにおどろきます。
 ブログはもちろん、だれかに読んでもらう前提で書くのだけれど、たとえだれも読んでいなくても、きっとみんな書きつづけるのでしょう。まったくお金にならなくても、ちっとも反応がなくとも書くというのは、ずいぶん純粋な行為で、なかなかステキなことです。

 結果に対する評価とか代替は、わかりやすいけれど、わかりやすいことはつまらない。結果の評価と、人としての価値とは別のものですし。

 金を稼ぐことも金メダルを取ることも、わるいことではありません。むしろ、良いことです。けれども、人もうらやむような、自分の手に負えないほどの財をなしたときに、気をつけていないと、ある日ふと気づけば、代わりに多くのものを失っていることがあります。たとえば、信用だったり友人だったり、とても大切なものがまわりからなくなっているのです。

 もう手遅れになる、独り淋しく死んでゆく、その前に気づいたのならまだマシですが、友人だとか家族なんかを失うくらいならまだマシです。

 ほんとうになくしてはならないのは、自分です。

 しあわせの基準。基準は自分の中にあって、それをズルズルと変えていくのは危険です。変動したら、基準になりませんから。

 若いうちに様々なものを見聞きして、正しく良質なモノサシをつくることが大切です。一つのことに懸命に打ち込んで大人になると、意外とこのモノサシが心許ないものだったりします。肉体や頭脳を鍛えるのは良いのですが、良い心を育みたいですね。

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2011.12.15

他人の目

 僕は、なるべくこだわりを持たずに、日々をおだやかに過ごしたいと願っているので、じつは記事にするネタがあまりありません。子供のころから一貫して他人に興味がないので、いつも好き嫌いの話になって申し訳ありません。

 中学校の同期会で、同級生の女子に「アクタが、うらやましいと思ってた」と言われて「どうして?」と尋ねると「アクタは、ひとりでいても平気な感じがしてて、いいなと思ってた」と言うんです。
 学生時代って、女子も男子もグループをつくりがちですから、だいたい目立つグループも目立たないグループもあって、双方の交流は少なくなっていくものですが、僕はどっちとも仲良くて、けっきょくどこにも入っていなかったのでしょうね。

 たしかに、ひとりでいても平気でしたし、文字にすると一匹狼みたいでカッコイイ印象を持たれるかも知れませんが、ただ学校にも友達にもあまり関心がないので執着がなかったのだし、いつも同じ人と一緒にいる意味やたのしみにピンとこなかっただけです。つまりは、ぼんやりとだれとも同じような距離をおいて接していたのでしょう。面倒くさかったんです。

 ところで僕は帽子が好きで、いくつか持っているものを気分や服装で使い分けていますが、帽子をかぶっているとカッコイイとかオシャレだとか言われることがたまにあります。
 けれども、実際は格好つけることにもお洒落にも、ほとんど全く興味がありません。ほぼ、こだわりもありません。
 僕の帽子を指摘されると、帽子は男の身だしなみなので、あなたもかぶったら良いですよと言うようにしています。事実は、ただ好きでかぶっているだけだし、目的の四十パーセントは朝寝坊の寝癖隠しです。

 帽子を勧められると男の人は「似合わないから」と断る人がとても多い。しかし、帽子なんて不自然なもの、たいていだれでも似合いません。僕だって、似合うと思ってかぶってはいません。
 きっと、そう言う人は帽子以外の服や靴やメガネやネクタイは似合っているという自信があるのでしょう。
 日本人にジーパンや背広や、ブーツやミニスカートが似合うとは思えないのですが、そこは気にならないのでしょうか。たぶん、みんながしていることは平気なのだけれど、自分だけがするのは恥ずかしいという気持ちもあるのでしょう。それが逆にダサイファッションだと気づかないで。
 流行ではないのに、オタクがみんな同じ服装をしていたり、競馬場や競輪場にいる老人も同じ格好をしているのがそうだと思います。

 いまは若い人たちに帽子がはやっているけれど、中折れや山高帽のフェルトの帽子をかぶって電車なんかに乗り込むと、けっこう見られているのがわかるときがあります。お茶会に行くのに和服を着て歩いていると、そうとう目立つのもわかります。マントを羽織って早足で歩いているときに、すれ違った親子連れの女の子に「カッコイイ」と言われたこともあります。
 まあ、見たい人は見てくれて全然かまわないと、思えるかどうかなんです。他人の目を気にする人は、ここで恥ずかしいと感じてしまうのです。恥ずかしいことは、やりたくないのでやめてしまいます。

 けれどもですよ。けれども、他人の目を気にして自分を変えてしまうなんて、つまらないことだと思いません?
 清志郎さんも「他人の目を気にして生きるなんて、くだらない事さぁ」と歌っています。
 だれだって、カッコワルイよりもカッコイイと思われたいでしょうけれど、他人の目は他人の意見ではないので、必ずしもカッコワルイと思われているとは限りません。思わず「カッコイイ」と言っちゃう子供もいるくらいですから。

 しかし、カッコイイと言われるのも恥ずかしい、照れてしまうという人も、世の中にも僕のまわりにも大勢います。
 本当のお洒落は、相手の印象に残らないものだと、英国の紳士などは考えるようですから、他人に感想を持たれること自体が恥だという考えもあるかも知れませんが、なにもそこまでカッコつけなくても良いのではないかと、僕なんかは思います。

 僕は格好つけることに興味はないのですが、格好つけない方がカッコイイと思っています。
 禅問答みたいですが、つまらないこだわりはカッコワルイということです。
 カッコイイ服装は、格好つけてるみたいだと思うのはまちがいです。カッコイイ服とカッコつけた服は、別もの。わざわざダサイ格好をすることはありません。
 きっと、自意識がありすぎて他人のこともすごく気になるのだろうけれど、そんなにみんな他人のことなど気にしていないと思いますけどね。

 僕は四十歳ですが、いままで自分で服を選んだことは二十着もないくらいです。この間買った、山高帽も妻に選んでもらいました。自分が気に入ったものだと、たぶん似合わないんで。シャツがほしいなとか、帽子がほしいと思っても自分ではまず決めません。全然自信がありませんから。他人が良いと言う方を買います。

 自意識過剰な人は、他人の目は気にするくせに、他人の意見は聞きません。妙なこだわりがあるので、まわりが似合うと言っても受け入れず、もしもそのとおりに購入しても箪笥の肥やしにしてしまいます。服装だけじゃなく、食べものでも行楽でもなんでもかんでも、イヤだイヤだが多くて面倒くさい。

 僕は他人の目は気にしないけれど、他人の意見にはけっこう素直です。

 こだわっていること以外では。

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2011.11.17

酢豆腐 .

 知らない人をバカにする人を時折見かけますが、あれはみっともないですね。大嫌いです。

 知らない人というのは、見知らぬ人ではなくて、ものを知らない人のことです。

 もちろん知らないにもほどがあるので、あまりに無知な人には話していてウンザリすることはあります。たとえば、日本ではたいていの人が中学校までは卒業しているので、教科書にでていること程度は知っているのだろうという前提で話すということです。
 でも、ちゃんと教わっていなくても卒業できちゃうものだから、話の通じない人もいっぱいいるし、逆に教わったことしかできない人も少なくありません。

 いま「たいていの人が中学校までは卒業している」と書きましたが、中学までは義務教育だから全員卒業しているはず、と思っている無知な人が何人かいるはずです。勉強不足ですよ。
 義務教育には、教育を受けなければならない義務はありません。
 義務教育の義務は、教育を受けさせる義務です。教育を受けたい子供に、親は教育を受けさせてやらなければならないという法律です。子供を守る法律です。学校に行きたくない子は、行かなくても良いんですよ。学校以外で勉強したい子は、それでも良いのです。

 ちょっと勉強になりましたか? もちろん、知らなかったのはバカにしませんよ。でも、いま知りましたからね。
 知らないことはちっとも恥ずかしいことでも、他人にバカにされることでもありません。知らないことなんて、たくさんあってかまいません。だれにだって、知っていることと知らないことが必ずあります。そして、みんな知らないことの方が多いはずです。

「知らない」ことを知っていればだいじょうぶ。さらには、知らないと素直に言えることも大切です。知らずにいるよりも、知らないと言えずにいる方が始末がわるい。
 案外、知らないことは強さになることもありますからね。

 先頃亡くなられて、伝記がバカ売れしているスティーブ・ジョブズさんは機械やコンピュータの専門家ではなかったから、できないことを知らないので、技術者がはじめから無理だろうとあきらめてやらないような発想を形にしていけたそうです。けっこう、頭では無理だと思っていても、やってみるとできちゃうことってありますからね。

 僕は、人生というほど大袈裟なものではないけれど、生活の姿勢として、資格を持たない、できるだけ組織に所属しないようにしているので、やはり資格所有者が思いつかないことを平気で考えて発言できます。正しいことか誤りか、良いことか悪いことかは、別にして。資格があるとルールも守らなければならないし、組織にいると人間関係があるしで、面倒くさい。

 たとえば、資格の中で仕事をしているのにルールを破ると姉歯事件のようなことになります。資格がなければ、公園とか橋の下とかに好きなように家を建てることもできるのに。
 当然ですが日本人としてのルールは守らなければいけないので、勝手に住んではいけないところに寝ていて「どきなさい」と言われたら、速やかに撤収しなさい。
 運転免許がないのに公道で自動車を走らせたら逮捕されます。私有地で無免許運転してもかまいません。秋篠宮さまは、礼宮時代ですけれど皇居だか御所内で教習をして免許をとった話は有名ですよね。天皇陛下も運転免許をお持ちだそうですので、同じようになさったのでしょうか。
 十六才に満たない子供でも、サーキットでならバイクに乗れます。

 資格や免許がなければできない、というわけでもないんですね。資格は公の場では必要だということです。仕事にするなら必要だということです。
 日本の国は、バレなければなにをしても良い国なのですが、資格を持ったら絶体にルールは破ってはいけません。プロボクサーはリング以外で人を殴ってはいけないし、建築士が勝手に鉄筋の数を減らしてはいけませんし、警察官が盗みや痴漢をしてはいけません──これはだれでもやってはいけません。
 資格を持っているのは、意外と不自由です。

 資格を持つことと、知っていることはちょっとちがうのですが、知識がない人と話すのも面倒なのですが、知識が豊富な人と話すのも、けっこう頭が固くて難儀します。知識の枠からはみ出せないことが多いのでしょうね。一つのことだけ異常に詳しい人に、この傾向は多くみられます。マニアとかフリークとかオタクとか、あまり良いイメージの言われ方はしませんね。わるかないんですけどね。

 なんといっても一番困るのは、知ったかぶる人です。

 僕は、利口ぶるとか上品ぶるとか偉ぶるとか勿体ぶるとか、何々ぶる人はたいてい苦手なんですけれど、というか嫌悪しますけれど、知ったかぶられるのはかなり迷惑です。
 知らないのなら早々にそう言ってほしいし、知らなくても話にのるつもりなら、そうとうおもしろいことを言ってくれなければ許せません。○○ぶる人の話は、たいていつまらないから貴重な時間を無駄に使わされます。

 日本の政治家や、学者や官僚の方々が、よく将来のことを予想されますが、いままで思惑どおりにいったためしが何度ありますか?
 天気予報や競馬の予想じゃないんだから、お気楽にやられたら困ります。はずれたら責任取らなきゃ。

 もう、私たちはバカでしたと認めて、そこからやり直しましょうよ。

 あんまり知ったかぶってると、腐った豆腐を食わされますよ。

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2011.06.02

おとこらしく .

 電車に乗っていて、スーツの上着の前裾をはだけている、だらしないサラリーマンが気になる話を書きましたが、電車に乗っていると他にもいろいろなことが気になります。
 でかい鏡をだして、白粉から口紅、マスカラ、アイシャドーまでして、乗ったときと降りるときでは別人に変身しているブスな女の子とか、携帯電話で話をしながら乗り込んできて、まあどうでも良いような急いでもいない話を延々としている口が半開きな男の子とかが目につきますが。一番気になるのは、シートに座っている男子です。

 足を投げ足しているとか、股をおっひろげているとかいう行儀の悪さではなくて、座っていること自体がとても気になります。
 もちろん、座ったらいけないということは決してないのですが、老人や女性が立っているのに、平気で座っている男子の気持ちが気がかりです。中には、駅に着いてドアが開くと、急いで入ってきて我先に空いている席に座る若い男の子もいて、嘆かわしいものです。そういう人は、たいてい格好もだらしないし、もちろんスーツのばあいは前ははだけていますし、顔つきも精悍さに欠けます。自分のことしか考えていないので、卑しい顔をしています。

 むかし『パペポTV』で上岡龍太郎さんが 、シルバーシートなんていらないと言っていました。年寄りや女性やけが人に席をゆずるなんてあたりまえのことなんだから、車両の端っこに「立っていられない若者のためのシート」を設ければ良いということでした。全く賛成です。
 目の前でおばあさんがよろけていても、赤ちゃんを抱えたお母さんや、「おなかに赤ちゃんがいます」キーホルダーをかけた女性が乗ってきても誰も席をゆずらないような教育って、うまくいっているのでしょうか。
 僕は子供を抱っこしていたり、ずいぶん空いていないかぎり、あまり座らないようにしているので、譲ってあげようにも譲れないのでイライラします。

 最近は、「男は、男らしく。女は、女らしく」なんていうとフェミニズムやらジェンダーやら、いろいろと面倒なことになる世の中ですが、男性からも女性からも「らしさ」がなくなってしまったのが、結婚できない一番の理由ではないですかね。
 男らしさというと、日本では武士道、イギリスでは騎士道や紳士的という精神に代表されるものだと思います。日本とイギリスだけではなく、たいていの国にこういった考え方は、古くからあるようです。

 共通する理念は「困難に立ち向かう強い心」「卑怯なことはしない」「他人のせいにしない」といったところでしょうか。
 そしてどの国の男も、女性に優しく、大切にするということです。

 けれど、知らない人に優しくするというのは、恥ずかしいし尻込みするし気がひけますよね。だから、親切にすれば良いのです。


 僕は、基本的に優しくない人柄なのですが、良く優しいと勘違いされることがあります。
 なんでかなあ? と思っていたら、美術学校の先輩の女性が「優しいんじゃなくて、親切なだけだよね」と言ってくれて。なるほどそのとおり。親切な行動を、優しいと勘違いしていたのか、表現していたのかだったんです。優しさは愛情からですが、親切は反射神経ですから、なにも考えなくてもできるんですね。

 僕はたいして男らしいとはいえませんが、電車の座席を争ったり、歩きながら煙草を吸ったり、不信任案を出されたりはしません。

 国民の代表である総理大臣が、いまはサイコー(サイテー?)に男らしくないので、こんな時代に育つ子供には、特に親の導きは大切になると思います。
 さんざん嘘をついて、自分の無能を隠すためにさらに嘘をつき、あげくに最後は知らなかったと責任転嫁。困難にも立ち向かえず、卑怯なことばかりして、他人のせいにするという、最悪の日本人代表を選んでしまうような国ですから。六十代の人でこれですから、これからどんどんこんなやつらが権力を持つ可能性があるのです。
 どうにかしないといけませんよ。

 かつて、春風亭柳昇さんは「五十過ぎた人に意見をすることほど、無駄なことはありませんね」と言っていました。もうなにも変らないからだそうです。現在の国会議員のほとんどが、言っても変らない人たちでしょうね。
 昨年ブームになった坂本龍馬。彼は人の意見を聞くと、どんどん自分の考えを変えていけた人物です。岩崎弥太郎にしろ後藤象二郎、板垣退助にしても、土佐の人はコロッと豹変できるところがすごいところですね。大事なところはなにか、真剣に生きているから良いものがあれば貪欲に受け入れ変更できるのでしょう。

 自分の地位だけに固執して、時間稼ぎのために国民を、特に避難者を置き去りにしているような政治家とは格がちがいますね。

 自分のために努力するのは意外とむつかしく、やはりどこかで甘くなってしまいます。だれかのために努力すると、意外な力を発揮することがあります。

 自分のことしか考えず、携帯電話の画面ばかり見ていると、フッと顔を上げたときに、まわりにだれもいなくなっているかも知れませんよ。

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2011.05.18

だらしない服装 .

 よく、年をとった人が若者の服装をだらしないと言いますが。
 イイ大人の服装も、そうとうだらしないものです。

 僕も今年は初老ですから、好い加減服装くらいはキチンとしようかと思いますが、背広を着る機会が滅多にないので、いままで通りカジュアルでも清潔な印象を心がけます。

 けれども絵描きとしては、多少普通とはちがう、くずした感覚も自己表現としてだしたいですね。

 しかし、会社員としてまっとうな社会で仕事をしている人は、まっとうな格好をしなければなりません。
 所属する組織がスーツを着用しろと言ったら、キチンとスーツを着るべきです。
 ところが、スーツを着ている人の大半が、非常にだらしない着方をしていて、育ちの悪さをにじみだしています。

 道を歩いていても、電車の中でも、サラリーマンらしきスーツを着た人のほとんどが上着のボタンをかけずに、だらしなく前裾をはだけたまま、やはりだらしない顔でうろついています。

 不思議なもので、だらしない服装をしている人はたいてい顔つきも行動もだらしないもので、服だけ着こなしているとか、顔だけ精悍だとか、行動だけはキビキビしていて気持ちが良いなんてことは希です。
 馬子にも衣装とも言いますが、印象というのはトータルで受けるものなので、だらしない人は立派な服でさえだらしなく着てしまうのです。

 たとえば「巨人軍は紳士たれ」で、選手は髭も生やせないのですが、なんにでも口をだす渡邉という会長のじいさんは、上着のボタンをかけずにインタビューには答えるし会見にもでます。
 きっと、とてもエライ人なのでしょうけれど、そういうだらしなさ下品さが見えてしまうので、エラソウな人にしか見えません。

 政治家や代議士にも背広をはだけたままテレビに映っている人は、かなりいます。さすがに国会ではキチンと前を合わせて答弁しているのだろうと思いきや、現政府の民主党の議員はネクタイをしていないせいか、総理大臣や官房長官をはじめ、けっこうな人たちがだらしない格好で出席しています。

 やはり、服装がだらしない人は、顔つきも言動もだらしないのです。
 菅さんなんか徹夜明けのサラリーマンみたいだし、枝野さんなんか首がないからボタンダウンの襟が異常に立って見えてバブルの成金社長みたいです。
 全く品格が感じられません。

 そういえばバブルのころは、みんなけっこう派手なスーツを着ていました。

 僕は小学生・中学生という時期でしたが、一世風靡が渋谷で踊っていたのを見て、その後セピアがデビューして、最高にカッコイイ憧れだったので、彼らが着ていたズートスーツにも当然憧れました。
 一世風靡のスーツは、ダブダブのダブルの上着に、タックの入ったダブダブで股上の深いズボンにサスペンダーとい格好でした。
 ワイシャツは着ないでティーシャツで腕まくり。
 柳葉敏郎さんは革靴を履かずにコンバースのバッシュでした。
 スーツにスニーカーというと、ウディ・アレンがずっと先ですが、彼の映画はあまり好きではありません。

 さすがに学生の僕にスーツをオーダーするお金はなかったけれど、三十を過ぎるまでスーツはダブルしか着なかったし、ベルトではなくいまだにサスペンダーです。
 コンバースは普段に履いていますが、生成は恐れ多くて履けません。妻が平気な顔で履いているので羨ましい。

 そのズートスーツというのは形のことではなくて、実際には精神のことなのだそうです。
 一九四〇年代に、アメリカの黒人ジャズメンなどが、奴隷的扱いを受けてきた白人に対する抵抗・反発の表現として、白人の上品で整ったスーツに対して、派手で崩れたスタイルをつくったものです。

 まさに、路上で踊っている一世風靡のような人たちにはピッタリですね。
 芸術家とか芸能人とかヤクザとか水商売とか、ちょっと社会からあぶれた人も良いかも知れません。

 けれども慣習を崩したり型を破るということは、反抗であり革命なのだから、覚悟なしにやっては痛い目をみます。
 ちゃんとした社会人、ましてや会社員はそんなことをしてはいけません。
 本来、着崩してはいけません。

 なんの考えもなしにスーツを着てネクタイを締めたらダメですよ。
 それは、なんの考えもなしに仕事をしているということです。

 総理大臣が、なぜだらしない格好をさらしているのかは謎ですが。

 政治家も、野党であれば反発する相手がいるので、型破りな政策を打ちだして、少々おかしな格好をしていても許されるのかも知れませんが。たぶん、されませんが。

 与党となって自分たちが反発される立場なのに、いまだに責任感のない言動では困ります。たしかに、国民に抵抗しているようには見えますが。
 国民の代表が、国民に反発してどうするんでしょうね。

 だらしないの「だらし」は、「しだら」の倒語だそうです。談志さんは落語家などが言っていたのが一般的になったと言っていました。いわゆる業界用語みたいなものですね。
「しだらなし」とか「ふしだら」ということです。

 若い男の子のズボンが下がっているのや、女の子の胸がはだけているのはファッションですが、中高年の背広の前がはだけているのは、無意識です。無自覚です。

 そんな、ものを知らない人たちが、子供や孫に、ものを教えられるはずもないので、いまこうなっているのです。

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2011.04.20

診療所 .

 物を大切にしない人は、人も大切にしないと思っています。


 さんざん休んだ挙げ句、いまなら東北の津波被害の記事を載せたいところなのだけれど、先日、丸善丸の内本店で開催されていた、セーラーのペンクリニックへ行って感激したので、その記事から。


 万年筆のセーラーは、百周年だそうで「万年筆国産化一〇〇年―セーラー万年筆とその仲間たち」という本を読んで、万年筆の調整をおこなっていることを知って、じつは大事に使っているのだけれど、どうも使い心地がわるい万年筆を診てもらいたいと思っていた矢先に、東京でクリニックが開かれると知り、早速行ってきました。高校の入学祝いに母にもらったモンブラン・マイスターシュテュック416を持って。


 セーラーのペンクリニックは、セーラー製品じゃなくても見てもらえるのです。

 高校生の僕には、うまく万年筆を使いこなすことができず、はじめから書きやすいものではないなと感じていました。その後、親友から美術学校の卒業か二十歳の祝いかでパーカーのソネットという万年筆をもらって、そちらはなかなか良い使い心地で、同じパーカーのブルーブラックのインクを入れて時たま使っていました。

 モンブランにはブラックのインクを入れていたので詰まりやすかったのかも知れず、子供だったので筆圧が強くてペン先が変になってしまったのかも知れません。


 僕はもともと使い捨て製品が好きではないのですが、高級品やブランド品が好きなわけでもなく。ただ勿体ない、愛着がわかないところが厭なだけなのですが。

 最近になって、なるべく万年筆を使うようになりました。

 これはなにも、スローライフだとかエコロジーなんていう流行に乗っかってではなく、便利で忙しない世の中で、ちょっとくらい不便で面倒くさいことがあった方が良いのではないかなと思って、眠っていた万年筆を引っ張り出して、掃除して使い始めたのです。

 ところがいつも使っていると、そう不便ではないし、逆にインクや紙にも凝ってみたいなとハマってしまいました。パーカーは、携帯していつでも使って、モンブランは家でじっくりと、といった感じで。

 ところがモンブランは、インクをレーシンググリーンに代えてみたのだけれど、やはり書き出しがかすれたりしてどうも乗りがわるいままでした。

 しかも、いま同じ物を買おうとしたらビックリする値段なので新品なんか買えません。

 それにこれは母からのプレゼントなので、なんとかこれを使いたい。


 そこでペンドクターです。


 やはり他社製品なので少々気が引けながら受付に行ったのですが、全く問題なく受け付けてくれました。

 丸善の文具売り場フロアーの一角に、机を出して白衣姿のドクターが二人並んで座っていて、すでに二人とも応対中で、その他に二人くらいが待合の椅子に座っていました。

 年配の方のドクターが、本にも載っていた万年筆の伝道師、川口明弘さん。いかにも堅気な感じで、調子が悪いから診てもらうのだけれど、調子を悪くしてしまった自分がちょっと恥ずかしい気がします。


 けれども誰だって病気や怪我はしますし、大事にしている子供やペットもなります。経験を繰り返して、成長していくものです。道具も、はじめからなんでもわかって、使いこなせるなんてことは、なかなかありませんが、人とちがって自分で直ってくれることはないので、致命的にこわれてしまった場合は専門家にたのむしかないですね。僕たちも、寐ているだけじゃ治らないと思ったら、医者にかかりますよね。だから、ペンドクターなんですね。


 僕の担当は、伝道師ではなく若い女性のドクターでした。

 書き出しでインクが出ないことが多いことや、購入が二十年以上前で、しばらく使っていない時期があったことを伝えました。

 まずは紙の上にペンをすべらせて、時計屋さんや宝石屋さんが使うようなルーペでペン先を確認して、先を押さえたりヤスリで磨いたりを繰り返していきます。

 おどろいたのは、紙の上にペンをすべらせると書きましたが、実際にペンを掌で支えただけで引いてすべらせるのです。最初は、三回に一回くらいしか線が引けなかったのが、調整していくうちに三回とも書けるようになっていきました。

 使っているからいまは出やすくなっているというのではなく、明らかに線が均一で、ほんの少し太くなって、万年筆が元気になっていくのがわかりました。


 感動です。


 お礼を言って立ち上がると、

「大切に使ってください」

 と、川口ドクターに声をかけていただきました。

 大切にはしていたけれど、大切に使っていなかったのだなと思いました。

 万年筆は、使えば使うだけ良くなる道具だそうです。しかし、自分勝手に使ったのではダメなんですね。友人関係や夫婦関係みたいです。


 大切に、使います。

 もう、この万年筆でなにかを書きたくてたまりません。だれかのところに手紙が届くかも知れません。この記事を手書きで載せられないのが残念です。

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