文化・芸術

2016.12.23

現代語訳?

 いまはどこでもそうなのか、息子の小学校では毎日宿題がでます。僕のころは、宿題のない日もけっこうあったと思うのだけれど、ときには自主的にやらずに登校したりもしていたので、ひとりだけ記憶がちがっている可能性もあります。

 それにしたって、子供にも家に帰ればいろいろとやることはあるのだから、勉強なんて学校の中だけで終わらせてほしいものです。宿題なんかやってるヒマはありません。若いうちに学ぶべきことは、ほかにもたくさんあります。

 そうはいっても、宿題の内容は漢字をおぼえたり算数の計算をしたりですから、反復がたいせつです。それと国語の音読が必ずあるのですが、これは良いことです。本なんて無理にでも、言われなければ読みませんから。せめて、国語の教材でも読むクセがつくのは良いことです。インターネットなんて見ていても、語学力も表現力も思考力もぜんぜんつきませんから。

 そんな息子の部屋から、宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」を読む声が聞こえました。小学二年生なので、ちょっとはやい気もします。

 けれども賢治の作品は、気取ったむつかしい言い回しではなく、丁寧で綺麗な言葉づかいなので、小学生が読むにはとても良いと思います。僕も、高学年で「雨ニモマケズ」を暗唱した覚えがあるので、なつかしく聞き耳をたてていました。

 しかし次の日、僕が宿題に付き合うと、おどろくことに藁半紙にプリントされたその詩は「ひらがな」で書かれていました。「雨にも負けず」と、仮名を漢字に変えてもいます。

 義務教育関係者は、往往にして芸術を理解しませんけれど、またかといった感じで憮然とします。

 文学は、筋がだいじなのではなくて、表現がたいせつなのです。言葉を選んで、漢字にするか仮名にするか、句読点を打つか改行するか、順番はどうか考えに考え抜いて書いているのに、勝手に書きかえられたら憮然とします。

 わざと二回書いている「憮然」は「ブゼン」と読みますが、ごくたまにこれを、腹をたてている態度だと勘違いしている人がいるみたいですが「憮然とする」は「ガッカリする」とか「呆れてものも言えない」といった意味です。「ブゼン」という強い濁音から、怒っているように受けとったり、知らないのに疑問に思わなければ調べませんから、まちがって使ってしまいます。

 百歩譲って、カタカナは低学年の子に読みづらいので、ひらがなにするのは許すとしても、改行や仮名を漢字に変えるのはバカバカしいにもほどがあります。

「負けず」だけではなく「勘定」とか「見聞きし分かり」とか改竄のオンパレードですが、クライマックスの「ミンナニデクノボートヨバレ」を「皆にでくのぼうと呼ばれ」と書きかえるのは、せめて「でくのぼー」と書いてほしいし、御丁寧に「皆」には「みな」と振り仮名が振ってあります。これはもう、完全なまちがいで「みんな」と「みな」では、意味は一緒でも印象がちがいます。

 詩や文章には、雰囲気や趣はだいじで、「みんな」と読んでほしいから、わざわざ「ミンナ」と仮名書きしているのです。「デクノボー」と「でくのぼう」と「木偶の坊」も、耳で聞いたらおなじだけれど、目で見た印象はちがいます。

 字が読めない子供に、読み聞かせをするのは良いことだと思いますが、文字を習ったらおなじ本を読ませますし、自分から読みます。

 海外の書物を、外国語に堪能ではない人のために、日本語に翻訳してくれるのはありがたいことです。訳者はひじょうに苦労するみたいです。物語だけでなく、情緒をべつの言語に置きかえるのはたいへんです。古い作品に、いくつもの翻訳が存在するのは、上手い下手だけではなく、雰囲気や好き嫌いなど、さまざまな解釈があるせいでしょう。

 芸術の核になる感性やひらめきは、学習して得られるものではないので、真面目に勉強して大学まで行って教育者になった人に備わっていないのは、あたりまえかもしれません。逆に、真面目に勉強しないほうが、伸びることがあるくらいです。

 ちゃんと勉強して東大に入って先生になった夏目漱石や芥川龍之介より、勉強しないで東大に入った太宰治のほうが人気があるのは、説明しづらい部分でしょうから。

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2013.05.23

乗り替え

 スタニスラフ・スクロヴァチェフスキさんが常任指揮者になってから、ずっと読売日本交響楽団の年間会員になっていて、毎月演奏会に行っていたのだけれど、先頃の値上げが著しくて退会しました。

 演奏自体も好きだったし、レパートリーも良かったので残念なところもあります。とくに下野竜也さんのドヴォルザークは、迫力があって良かったのに、下野さんも卒業みたいな感じなので、あまり未練はありません。

 けれども、年間会員はやはり一公演の値段は安いので、どこかほかに良い楽団はないかと、かなり探してずいぶん迷いました。
 もちろん金額と、演奏会の回数と曜日と場所がだいじで、なかなかコレというのが見つかりません。

 普段からクラシックを聴くのは好きなのだけれど、特別くわしいわけではないので、演奏も指揮者もハズレがないのはNHK交響楽団なのだろうけれど、人気も質も良いだけにほかと比べてグンと高額です。
 ちゃんと受信料を払っている人には、割引があっても良いのにと拗ねたくなります。

 けっきょく、だいぶ吟味した結果。東京交響楽団にしました。

 演奏は、以前「題名のない音楽会」の収録で聴いた程度でしたが、指揮の飯森範親さんは良いんじゃないかという印象があったし、新しい客演指揮者のクシシュトフ・ウルバンスキさんが若くて期待がもてそうだったので思い切って決めてしまいました。
 友情でも恋愛でも趣味でも出会いは偶然ですから、あまり意味も希望も期待もなくて良いものです。

 けれども、偶然の出会いだからこそ、大切にしないと後悔することもしばしば。
 読響との別れも、そうとう考えての末だったのですが。出会いと別れをくり返して、僕たちは大人になっていくものです。
 悲しみを知っているから、喜びをあたえられるんだよね。

 で、東響といえばミューザ川崎シンフォニーホールという、ステキな意匠の会場をフランチャイズにしていて、一度行ってみたいと思うのですが、年に五回も毎回行くのは、僕の家からだと東京の北から南まで縦断しなければならないので、ちょっと遠いなと感じてしまって、東京オペラシティの六公演にしました。

 サントリーホールが定期演奏会で十回なのですが、六本木に馴染みがないせいか、距離は遠くないのになんとなく気分的に遠い感じがして、良いホールだと思うのだけれど、ちょっと行くのが面倒くさいですね。
 公演後に会場をでたときの「コンサート聴いたな感」はすごくありますけどね。
 前が開けていて、駅が遠いので混雑しないのが良いんでしょうね。東京芸術劇場なんて、劇場内のエスカレーターから渋滞していて、外の長いエスカレーターも混んでるのに一段空けて乗るものだから、どんどん人が溜まってイライラします。
 うしろから蹴っ飛ばしたりしたら大変なことになって、僕は出入り禁止になってしまうだろうから、演奏中の眠気同様ガマンしていますが。

 以前、会場へ上がっていく途中で、あの長いエスカレーターが急に止まったことがあります。
 一番下で、乗り損ねたおばあさんが転んでしまって緊急停止したのです。
 びっくりしましたよ。
 転げ落ちた人はいませんでしたけれども、みんなつんのめりました。坂本龍馬のように前のめりのまま死んでいきたいと、志士ならばだれもが思うところですが、急ブレーキで死んだのでは浮かばれません。
 だれも死なず、けが人もでなかったのは幸いでした。

 しかしそれから、止まったエスカレーターを上まで歩いて登らなければならないのが辛かった。
 止まっているエスカレーターって、なんであんなに気持ち悪いんですかね。
 運んでくれると思い込んでいる感覚があるのに、全くサポートしてくれないので体がいじけるのでしょうか。
 それともホーンテッドマンションの、天井が高くなっているのに自分たちが地下に下がっているみたいな混乱した不快感と似ているのかしら。

 それはさておき。東京交響楽団の演奏です。

 僕は、東京オペラシティのシリーズなので五月から隔月です。
 最初のプログラムは、秋山和慶指揮。

 ドビュッシー(ビュッセル編)「小組曲」
 ラヴェル「ピアノ協奏曲」「左手のためのピアノ協奏曲」「ラ・ヴァルス」

 僕は、現代音楽って考えすぎていて美しさや心地よさと反対の方向へ行ってしまっている作品が多くてそれほど好きではないので、ちょっとガッカリしていたのですが。
 じつは「好きな画家は?」と聞かれて最初に思い浮かぶのはフランク・ステラさん。
 それに、ストラビンスキーの「春の祭典」は、じつによく聴くCDのひとつですから、口で言うほど現代物が嫌いというわけでもないのかもしれません。

 それに、とても良い演奏でした。演奏冒頭のフルートの音からして美しく、つかみはオッケーでした。
 ピアノのミシェル・ベロフさんもすばらしくて、たぶんロビーですれ違ったのは中村紘子さんだと思うし、隣の席では辻井信行さんが後ろのほうで聴いているとウワサしていましたから、きっと高名なピアニストなのでしょうけれど僕は知らなくて、知らなくてもその良さは全身で感じました。

「左手のためのピアノ協奏曲」というのは、最初から最後まで左手だけで弾くものだとはおどろきでした。
 CDだと、まさか左手一本で弾いているとはわからなかった。
 プログラムの解説によると、戦争で右手を失ったピアニストのために作曲したものだそうで、本当に左手しか使えない人が弾くと、またちがった感じになるのかしらと考えていると。
 帰ってからミシェル・ベロフを検索したら、彼も右手をケガしてピアノが弾けない時期があって、この曲で復帰をはたしたのだと知って、なるほど生半可ではない迫力のある演奏ができるのにも納得しました。

 東京交響楽団。当たりです。

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2011.11.30

噺の話

 落語家の立川談志さんが十一月二十一日に、喉頭癌の再発で亡くなりましたので、今回は落語の話。

 僕が落語を積極的に聞くようになったのは談志さんがきっかけです。高校を卒業して、美術学校に通っているころテレビで「落語のピン」という深夜番組がやっていて、談志さんが毎回一席と若手・中堅といった落語家を紹介するようなかたちで高座を放送していました。
 一人の時間は三十分もなかったと思うので、NHKの「日本の話芸」とか、TBSの「落語研究会」ほどはじっくりと長い話はやっていなかったと思いますが、おじいさんがやる落語じゃない、いまの落語といった感じで、毎週たのしみに見ていました。

 そのとき、抜群に輝いていたのが春風亭昇太さんと立川志らくさんでした。
 あのときの、志らくさんの「子別れ」以上の子別れは、未だ見ていません。志ん朝よりも小三治よりも、すごかった。
 子別れとは思えないはやさで、やっちゃうんですけどね。

 その番組が終わってしまってから、劇場に聞きに行くようになりました。
 もちろん、談志さんが中心で、昇太、志の輔、志らくと聞きました。
 東京の寄席は、落語協会と落語芸術協会が交互に使っているため、落語立川流は出演できないので劇場で独演会やグループの会をやることになります。
 チケットぴあなどでチケットを購入して行くのですが、テレビの影響で当時は立川流が人気でした。いまも人気の独演会は、かなりチケットが取りにくいですけどね。

 年末の談志独演会は、みんな「芝浜」が聞きたくて銀座の中央会館が満員になります。最初に行ったときは、けっこう後ろの席だったと思います。
 芝浜という落語は、最後の場面が大晦日なので師走にやることが多いみたいです。

 ちなみに「芝浜」とか「子別れ」とか言っていますが、本来落語には題名がありません。寄席で話が重ならないように「芝の浜」とか「目黒でサンマ」とか特徴をノートに書いていたものが、統一されて呼び名になったものです。もともと符丁みたいなものですが、客も名前があると話すのに便利なので使うようになったのでしょうね。

 芝浜といえば、年配の方には桂三木助なのでしょうけれど(当時は三木助さんしかやってないし)僕ら世代には談志の芝浜、芝浜の談志です。最初に生で聞いたときには泣きました。ボロボロ泣きましたよ。
 のちに、談志さんがノドをわるくして声がだしにくくなったときには、良いときの芝浜に間に合って本当に良かったなあと思いました。しかし、その後も芝浜は進化して、伝説になるような高座が何度もあったようです。スゴイですね。

 談志さんの芝浜は長いです。僕はあまり長い話は好きではないのですが、一つ一つの場面がリアルで良いんです。
 イヤホンで歩きながら聞く音楽ではなく、ビデオで見る映画でもなく、椅子に座って聞く、映画館で見る、古き良き音楽や映画のような一席だと思います。

 ちなみに、落語は話を聞きに行くのではなく、落語家を見に行くものなので、実際にはなんの話をしてもかまわないのですが、文楽さんがでてきたら「明烏」とか、柳好さんなら「野ざらし」なんて叫んじゃうんですね。

 二十年前で、あんなにスゴイのに、晩年にはまるでジャズの即興演奏のように登場人物が自在に動いてしまっていたようです。
 談志さんの高座を生で聞けなかった人は残念でした。CDやDVDでもすばらしいのですが、やはり空気感は味わえないので、歌丸さんと小三治さんは、はやめに寄席や劇場に足を運んでおくことをオススメします。

 最初の落語との出会いは、じつは談志さんではなくて、小学生のころ、本でなんです。母が「落語名作全集(立風書房)」という本を持っていて、それを従兄のお兄さんが遊びに来たときに読んでいたのを、僕も真似して読むようになったんです。

 当時は、談志、円楽、志ん朝はもちろん、小金馬、小圓遊、小益、三枝、仁鶴とテレビに落語家がたくさんでていて、笑点もやっていたのですが、落語家が落語をやっている姿で記憶にあるのは柳家小さん、春風亭柳昇と桂米丸くらいがおぼろげに記憶にあるかないかといったところです。熱心に聞いたりはしていませんでした。

 ちなみに、古典落語には漫才や芝居のような台本がないので、活字になっているものは、どこかでだれかが話したものを記したものです。だから、絶対的なものではなく、演者によっても、同じ人でも時と場合によって、大まかな筋以外はだいぶちがいます。

 好きだった話は「目黒のさんま(金原亭馬生Ⅹ)」ですね。子供にもわかりやすい。じつは最近、馬生にハマってます。
 いまも、テレビのお笑いでトップといっても過言ではない明石家さんまさんは落語家ですからね。落語しませんけど。
 落語は浮いたり沈んだりしながら、まだしばらくつづいていくだろうと思います。

 最後に、落語をちゃんと聞いたことがない人にオススメの落語家。
 現在、生で聞きに行くなら、春風亭小朝さんと立川志の輔さんが抜群にうまくておもしろいです。落語らしい落語。
 昔の人をCDで聞くなら、三遊亭金馬Ⅲ、桂文楽Ⅷが歯切れが良くてわかりやすいです。

 志ん生、圓生、志ん朝はそんなに好きじゃないかな。

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2011.10.20

なでしことかはやぶさとか .

 ラジオで、評論家の(と紹介している)山田五郎さんが「キモチワルイ」と言っていました。
 なにがキモチワルイのかというと、二十世紀フォックスの『はやぶさ/HAYABUSA』という映画が現在公開されていますが、このあとにも東映と松竹で、おなじはやぶさをあつかった作品が公開予定なんだそうです。はやぶさが帰れないかも知れなくなった途端にマスコミも市民も興味をなくしていたくせに。もともと、小惑星に着陸したときだって、たいした関心も示さなかったくせに。

 帰ってきて、それがすごいことだと言われるようになったら、ニュースで取り上げたり、映画の題材にしたりする、態度の変わりようがキモチワルイんだそうです。

 僕は宇宙開発に税金を投入することには全面的に反対しているので、はやぶさにもほとんど興味はありませんが、はやぶさのストリートいうのは簡単に言うと、地球以外の惑星(実際にはイトカワという小惑星)の観測をして着陸、サンプルを採取して地球に戻るというミッションの途中で、数々のトラブルに見舞われ、数年間漂流したあとで、見事にサンプルを持ち帰ったという、感動のドラマ。

 なにもイトカワなんて、聞いたこともない遠くの惑星よりも、まずは火星のサンプルを取ってきたら良いのにとシロウト考えで思うのだけれど。火星程度ならいつでも行けるゼ! ということなのでしょうか。

 しかし、たしかにスゴイことなのですが、完全に趣味の領域ですから自腹でやってほしい。
 研究というのは、基本的に自費でおこなってほしいものです。会社の金で研究して、あとから研究の成果は自分個人のものだという戯けた研究者がいましたが、だったらはじめから自腹を切れというんだ。

 スーパーコンピューターは二位じゃダメなんですか? なんてバカな発言をして、こんなバカに仕分けなんてできるのだろうかと国民に不安を抱かせた政治家もいましたが。もちろん、オリンピックじゃないんだから二位じゃ意味がないんですが(オリンピックも優勝以外は表彰の必要なし)、そもそも国でそんなものを開発しないでもらいたい。コンピュータだとかロケットだとかは、やりたい人に自由にやらせておけば良いんです。

 そんなことをすると優秀な人材が海外へ流出してしまうとお嘆きの貴兄もありましょうが、かまいませんよどこでやったって。お金や時間がかかりすぎる発見や発明なんて、たいして儲かりませんよ。スンゲェ発明は、もっと単純にひらめいてますよ。
 どうしても日本でやってほしいと思う、国民や企業はお金を出し合えば良いんです。震災の義捐金なんて、あっという間に何億円も集まるような国なんですから。お金持ちがいっぱいいる国なんですから。

 もしくは、国は軍事目的ですと正直に言ってしまうことです。

 ところが、お金はあるんだけれど、使い方を知らない国なので無駄が多い。国民は、社会とか世界とかに興味がないので、どんな研究がされているかなんてだれも知りません。政治にも経済にも科学にも芸術にも、たいていの人は関心も理解もありません。

 スポーツでは、なでしこフィーバーというのがありました。あれも、山田さんは同じような感じを受けたと言っていました。
 昨日まで、ほとんどの人が見向きもしなかったのに、ワールドカップで決勝に進んだ途端に試合を見たことがない人まで、なでしこなでしこと騒いでキモチワルかったそうです。

 僕も以前のコラムに書きましたが、あれはキモチワルかった。頭のわるすぎる総理大臣が国民栄誉賞まであげちゃいましたが、やりすぎです。尻馬に乗っかりすぎです。WBCで日本が連続優勝する程度のことです。吉田 沙保里の百十九連勝の方がスゴイと思います。
 国民栄誉賞なら、福島の原発で放水をつづけたハイパーレスキューに差し上げたって良いのではないでしょうか。

 読売ベレーザの高倉選手は好きでしたけれど、サッカー自体はまるで見ないで、男子のワールドカップのときだけニワカファンになる程度なので、サッカー自体があまりスゴイと思わないのだけれど。女子サッカーだって、ずっと地道に努力をしてきたわけです。観客が入らなくても、国際試合でさえ深夜の衛星放送でしか放送されなくても、日々精進を重ねてきたんです。

 ニワカファンが増えると、お金が入ったり、やりやすくなったり良いこともあると思いますが。わるいこともありますよね。
 ブームは必ず去りますから、ブームに対応して変更、投資してしまうと、ブーム後は無駄になってしまいます。Jリーグが、最初にお金を使いすぎましたよね。

 たぶん、はやぶさの映画も人は入らないんじゃないかと思います。
 だって、見たいですか? 僕は全然見たくありません。
 ミイちゃんハアちゃんは、興奮したいだけで、本質には興味なしですから。

 これから、持ち帰ったサンプルを分析して、いろいろなことがわかってくるのだろうけれど、そうとう重要な発見でもないかぎり新聞の片隅、ニュース番組の一行くらいにしかならないかも知れません。

 みんな感動に飢えているのでしょうか。

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2011.08.24

3Dはなくなるという予言 .

 先週は夏休みをとっていて、逆に忙しくて疲れて休んでしまいました。
 会社を休みにすると、いろいろとやることがあってたいへんです。世の中には、とにかくお金を稼ぐことが好き、だいじという人も大勢いるけれど、お金にならない仕事も大切です。

 僕は美術学校を出ていて、気持ちは絵描きなのですが、なかなかコンスタントに制作できず、もちろん作品は売れないので画家を生業とは言えないけれど、創作という仕事は生活の中でも生きていくうえでも大切です。
 同窓生などの仲間は、働きながらもしっかり創作をつづけていて、定期的に発表したり、展覧会に出品したりしているので、ちょっと僕自身は情けなく感じ、みんなをとても尊敬します。

 美術作品は、マンガやイラストやビデオのように大量に複製できないので、二流の作品でも高額になってしまうという弱点があり、数が少ないのでみなさんのお手元に本物を届けられないという難点があります。

 その点では、印刷を前提としたポスターや挿絵などは、広告として、本や雑誌としてのマスメディアの価値があるので、生業としやすいですね。
 そのなかで、ロートレックやミュシャやロックウェルほどの美術的価値があるものは、多くはないのですが。

 僕はパトリック・ナーゲルさんの絵が好きで、復刻の版画も一枚持っていますが、バブル期には流行していたので四十才以上の人は知っている人もいるかと思いますが、現在は全く目にも耳にもしなくなりました。
 イラストレーションは、その時代を映す部分が多すぎるというか、ほぼ流行なので、時代が過ぎて流行が終わると忘れ去られてしまう危険性があります。326とか、すごく流行ったのにね。

 あたりまえですが、一度も流行さえしないで埋もれているよりは、ずっとマシですし、うらやましいかぎりです。

 同じマスメディアでは、映画や小説やマンガには普遍的なものも多いですね。

 やはり、イラストレーションのように大量には作品をつくれないで完成に時間がかかるから、そのときの流行りだけを追うと、出来上がったときには時代遅れになってしまうので、もっと本質的なテーマになりがちなのですかね。

 小説やマンガは、製本されたものそれ自体が本物ですし、テレビやビデオも高精細で高音質なので、ロードショウでなくてもいつでも見られて良いですね。

 けれども、最近は3Dブームが到来していて、CG作品やアクション映画は3Dが多くて、バカみたいですね。こんなのは、作品の内容にはなんの有益にもなりません。

 それどころか、やたらと奥行を強調した構図をつくりたがって、なんでもかんでも飛びだせば喜ぶと思っているから、全く不利益です。遊園地のアトラクションで、五分や十分たのしむのがギリギリです。

 ところが、DVDレコーダーを買い替えようかなと、ビックカメラを覗いてみると、もうDVDはブルーレイになってしまっていて、しかも3D対応というのがたいてい付いていて邪魔です。
 うちはハイビジョンテレビでもないしというか、まだブラウン管なのでブルーレイすらいらないうえに、3Dなんて家のテレビで見てなにかおもしろいんですかね。

 映画やドラマは、3Dになると面白さが倍増するとでもいうのでしょうか。「アバター」はヒットしたようですが、「七人の侍」や「ベン・ハー」よりもおもしろいのか?
 たとえばスポーツやレースを3Dで見たら、臨場感が味わえるとでもいうのでしょうか? やはり実際に現場にいる空気とはまるでちがうものだろうし、ヘンなメガネをかけるよりも人の想像力はずっと多くのものを見せてくれるはずです。

 任天堂の3DSの売り上げがわるくて、大幅に値下げしたというニュースもありました。

 制作者の考えているほど、みんなは3Dに魅力を感じていないのでしょうね。
 きっと、一生懸命研究開発したのでしょうけれど、たぶん、廃れます。

 僕は、自宅に5.1チャンネルとかいって、重低音やサラウンドを導入するのもバカげていると思っていますが、これもスピーカーを前面だけに収めてバーチャルに後ろからの音を体感させたり、たいへんな苦労をしているようです。
 任天堂3DSは、メガネがいらないそうですが、テレビもそのくらいまでは発売されるかも知れません。

 けれども、十年もしないうちになくなるでしょう。
 けっきょく、テレビ電話を必要としないように、3D映画やテレビなんて必要ないんです。

 僕たちは3Dに生活しているので、3D映像を見ておどろくのは一瞬です。

 インスタレーションだとか、おもちゃみたいな立体アートがもてはやされたりすることがありますが、やはりすぐに廃れます。絵画も、二次元だから良いんです。

 流行ってもほしいけれど、本物をつくりたいですね。

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