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2011年5月

2011.05.18

だらしない服装 .

 よく、年をとった人が若者の服装をだらしないと言いますが。
 イイ大人の服装も、そうとうだらしないものです。

 僕も今年は初老ですから、好い加減服装くらいはキチンとしようかと思いますが、背広を着る機会が滅多にないので、いままで通りカジュアルでも清潔な印象を心がけます。

 けれども絵描きとしては、多少普通とはちがう、くずした感覚も自己表現としてだしたいですね。

 しかし、会社員としてまっとうな社会で仕事をしている人は、まっとうな格好をしなければなりません。
 所属する組織がスーツを着用しろと言ったら、キチンとスーツを着るべきです。
 ところが、スーツを着ている人の大半が、非常にだらしない着方をしていて、育ちの悪さをにじみだしています。

 道を歩いていても、電車の中でも、サラリーマンらしきスーツを着た人のほとんどが上着のボタンをかけずに、だらしなく前裾をはだけたまま、やはりだらしない顔でうろついています。

 不思議なもので、だらしない服装をしている人はたいてい顔つきも行動もだらしないもので、服だけ着こなしているとか、顔だけ精悍だとか、行動だけはキビキビしていて気持ちが良いなんてことは希です。
 馬子にも衣装とも言いますが、印象というのはトータルで受けるものなので、だらしない人は立派な服でさえだらしなく着てしまうのです。

 たとえば「巨人軍は紳士たれ」で、選手は髭も生やせないのですが、なんにでも口をだす渡邉という会長のじいさんは、上着のボタンをかけずにインタビューには答えるし会見にもでます。
 きっと、とてもエライ人なのでしょうけれど、そういうだらしなさ下品さが見えてしまうので、エラソウな人にしか見えません。

 政治家や代議士にも背広をはだけたままテレビに映っている人は、かなりいます。さすがに国会ではキチンと前を合わせて答弁しているのだろうと思いきや、現政府の民主党の議員はネクタイをしていないせいか、総理大臣や官房長官をはじめ、けっこうな人たちがだらしない格好で出席しています。

 やはり、服装がだらしない人は、顔つきも言動もだらしないのです。
 菅さんなんか徹夜明けのサラリーマンみたいだし、枝野さんなんか首がないからボタンダウンの襟が異常に立って見えてバブルの成金社長みたいです。
 全く品格が感じられません。

 そういえばバブルのころは、みんなけっこう派手なスーツを着ていました。

 僕は小学生・中学生という時期でしたが、一世風靡が渋谷で踊っていたのを見て、その後セピアがデビューして、最高にカッコイイ憧れだったので、彼らが着ていたズートスーツにも当然憧れました。
 一世風靡のスーツは、ダブダブのダブルの上着に、タックの入ったダブダブで股上の深いズボンにサスペンダーとい格好でした。
 ワイシャツは着ないでティーシャツで腕まくり。
 柳葉敏郎さんは革靴を履かずにコンバースのバッシュでした。
 スーツにスニーカーというと、ウディ・アレンがずっと先ですが、彼の映画はあまり好きではありません。

 さすがに学生の僕にスーツをオーダーするお金はなかったけれど、三十を過ぎるまでスーツはダブルしか着なかったし、ベルトではなくいまだにサスペンダーです。
 コンバースは普段に履いていますが、生成は恐れ多くて履けません。妻が平気な顔で履いているので羨ましい。

 そのズートスーツというのは形のことではなくて、実際には精神のことなのだそうです。
 一九四〇年代に、アメリカの黒人ジャズメンなどが、奴隷的扱いを受けてきた白人に対する抵抗・反発の表現として、白人の上品で整ったスーツに対して、派手で崩れたスタイルをつくったものです。

 まさに、路上で踊っている一世風靡のような人たちにはピッタリですね。
 芸術家とか芸能人とかヤクザとか水商売とか、ちょっと社会からあぶれた人も良いかも知れません。

 けれども慣習を崩したり型を破るということは、反抗であり革命なのだから、覚悟なしにやっては痛い目をみます。
 ちゃんとした社会人、ましてや会社員はそんなことをしてはいけません。
 本来、着崩してはいけません。

 なんの考えもなしにスーツを着てネクタイを締めたらダメですよ。
 それは、なんの考えもなしに仕事をしているということです。

 総理大臣が、なぜだらしない格好をさらしているのかは謎ですが。

 政治家も、野党であれば反発する相手がいるので、型破りな政策を打ちだして、少々おかしな格好をしていても許されるのかも知れませんが。たぶん、されませんが。

 与党となって自分たちが反発される立場なのに、いまだに責任感のない言動では困ります。たしかに、国民に抵抗しているようには見えますが。
 国民の代表が、国民に反発してどうするんでしょうね。

 だらしないの「だらし」は、「しだら」の倒語だそうです。談志さんは落語家などが言っていたのが一般的になったと言っていました。いわゆる業界用語みたいなものですね。
「しだらなし」とか「ふしだら」ということです。

 若い男の子のズボンが下がっているのや、女の子の胸がはだけているのはファッションですが、中高年の背広の前がはだけているのは、無意識です。無自覚です。

 そんな、ものを知らない人たちが、子供や孫に、ものを教えられるはずもないので、いまこうなっているのです。

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2011.05.11

付け焼き刃 .

 いまの日本の総理大臣って、なにか考えがあって行動しているのでしょうか。
 最近の首相はみんな人気がありませんが、菅直人さんはいままでにもましてダメっぷりを発揮しています。
 昼行灯を装って、実は大人物だというのならいざというときに頼りにできるのですけど。または、できないからしないというのならば、それはそれで周りががんばるかも知れません。
 けれども菅さんは、自分でやろうとするから始末がわるい。
 突然、静岡の中部電力浜岡原子力発電所を停止したのは英断だったのでしょうか。
 東北を大津波が襲ってから、グズグズとなにも決めないで、ナントカ委員会ばかり立ち上げては会議で時間をつぶしているから、いったいなにを優先したら良いのかわからなくなってしまったのかしら。大事なことは先送りにしておいて、あとからでも良さそうなことをいまやりたくなっちゃう。まるで期末試験が近づいてくると部屋の掃除や模様替えをはじめてしまう高校生みたいです。そんな、試験が終わってからゆっくりやれば良いようなことを、さも大事なことのように発表して国民の目を反らせる姑息な作戦なのでしょうけれど。姑息な作戦は、姑息な人にしか通用しないということを知らないのでしょうか。

 かつての阪神淡路大震災では、当時の村山首相は昼行灯を装った意外にも大人物で、自分でわからないこと決められないことは専門家に任せて責任の所在だけは自分にあるという決断をすぐにして、みんなが一斉に動きだしたので対応が早かったのですが、二箇月後にあとに東京で地下鉄サリン事件が起きて、民衆の興味がそっちへ移ってしまいました。マスコミも同様で、その日から震災の報道はパッタリとされなくなり、オウム真理教一色になってしまいました。
 弁護士一家殺害や松本サリン事件、選挙出馬などで注目はされていましたが、日本での無差別大量殺人テロ事件というのは、かつてなかったことなので──松本の事件が起きたときは、テロ活動なのかいまいち判然としなかった観があるので──みんな揃ってそちらへ向いてしまいました。
 たしかに、大地震や津波や颱風による被害なんて、この国ではしょっちゅうあることなので珍しくはないけれど。被災地の人にとっては、たった二箇月ではまだまだ倒れた家や道路もたくさんある頃です。
 仮設住宅の設置がはじまったのですが、最初は郊外ばかりだったので避難所から移行する人があまりいないという状態。案外贅沢になりますね。その仮設住宅から最後の避難者が引っ越したのは、五年後のことです。
 もちろん五年で完全に復興したわけではありません。復興住宅へ移った人も自力で家を建て直した人も、お金がかかります。以前の家のローンが残っていたりしたら、ダブルローンです。
 現在も兵庫へ行けば、まだ震災の爪痕が残っている場所が見られます。
 今回は仮設住宅の設置も遅いですね。

 ゴールデンウィークには大勢の人が被災地へボランティア活動へ行ったようですし、救援の募金もたくさん集まっているようなので、まだまだ捨てたものではありません。けれどもニュースの映像を見ていたら、仕事を割り当てられたボランティアの若者たちが道路脇の公園だか歩道だかの側溝に溜まった土を掻きだす作業をしていたのですが、人も車も通れる道の脇の溝よりも、もっと先に片付けた方が良い場所があるのではないかと思いました。自衛隊員のようにプロではないので危険な場所へは行けないということなのでしょうか。
  ボランティアの方だって、手助けしたいという思いで私財も命も擲って行っているのだから、海岸線での作業だって遺体の捜索だって厭わないと思うのですが。なにかあったときのことを考えて、あまり過酷なことや責任を問われるようなことはさせたくないのかも知れません。
 ボランティアでやっているのだから、文句なんか言うはずないのに。
 テレビのナレーションだってひどいものでした。
「連休を返上して云々」
 なんてことをまじめに言っていました。連休を返上したら職場とか学校へ行っているんです。連休を利用してと言わなければ、あまりにもボランティア精神をバカにしています。 政治家やマスコミは表面的な薄っペラペラな人ばかりで、他人にも薄っぺらな見方しかしないから、みんながみんなペラペラな生き方をしているのかと勘違いしているのかも知れませんが、たいていの人は本質のある考えで行動しています。
 だからセコな総理大臣の、姑息な手口になんかもう誰も騙されないし、うんざりしています。
 国民のことも見ていないし、自分も見失っているような政府に、いつまで国の運営を任せていなきゃならないのでしょうね。少なくとも過半数の国民が選んでしまったものですが、たぶん投票した人の過半数は後悔しているでしょうね。
 四十年前に原子力発電所の誘致賛成した人たちも、いまごろ後悔しているかしら。
 四十年前に建てられた発電機は、もう運転を終了しているけれど。

 決断力がないなあと嘆いていたのだけれど、決意のない人は安易に決断しない方が良いですね。大事なときに慣れないことは、しなくて良いです。できる人に、任せましょう。 

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